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ノベルの森

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(2)野菜ジュースとベーコンエッグ

    (2) 野菜ジュースとベーコンエッグ 

 

 柚子は例によって歩きながら歯を磨いている。

母親の秋子の口が開きかけたけれど、思い直したようにソファに腰を沈め、

読みかけの新聞をたたんでテーブルの上に置いた。

「さてと、・・今朝は何を食べるの?」

秋子は目の前を行ったり来たりしいて、歯を磨き続ける我が娘を目で追いながら

朝食のメニューを聞いた。

柚子の朝食はその日によって変わる。



大体は「野菜ジュースとベーコンエッグ」なのだが、

今日もそうだと思って支度をしていると。

その日に限って



「今日はお味噌汁が良かったのにー」

などと我がままを言ったりするので、この優しい母親は

毎朝聞くことにしている。誰が見ても甘やかし過ぎだろうけれど、

これはこの親子の約束事なのである。



 父、周一が死んでから、柚子は悲嘆のあまり、著しく食欲を失くした。

髪を梳かすことさえ母に言われなければ忘れる。朝食は手もつけない。

昼は学食だが親友の真紀子が誘っても、牛乳を飲む程度。

 夕食は秋子が腕によりを掛けて柚子の好物を作ってあげた。

それでも柚子は一口、二口、そのくらいしか食べない。

痩せる一方だった。

 

 ある日柚子の目の前で、母は唐突に涙を流した。柚子は驚いた。

(お父さんが亡くなってから初めて見る。お母さんの涙)



「柚子、このままあなたがやせ細って病気にでもなったらお母さん、

お父さんに合わせる顔がない。何でもいいから食べたいもの言って!

お母さん頑張って何だって作るから、お願いだから何か食べて頂戴!」

 

 そういい終わると母はベッドに横たわる我が子の前で泣き伏した。

声を上げて。

柚子は思った、こんなに母を心配させていたなんて。



「お父さん、ごめんなさい。お母さんに私、酷いことしちゃってた。

これからはうんと仲良くして、いっぱい甘える。お母さんに

・・・それでいいのよね?お父さん」



 柚子は、ナイトテーブルの上に置いてある父の写真を入れた

フォトスタンドを手に取り、心の中で父にそう話しかけた。

それは彼女にとって母に対する謝罪であり、父への誓いだった。

 彼女は溢れる涙をその長い指で拭い、

体を起こすとベッドから下りて母の前に両手をついた。



「お母さん」

 秋子にはまだ柚子の呼ぶ声が届いていなかった。

柚子は肘をつき、父親譲りの指の長い大きめな手を母の手に重ねた。

秋子の体がぴくっと動き、彼女は泣き止んだ。

まだほんの少ししゃくってはいるが。もう一度柚子が母に声をかける。

下から母の顔を覗きこむようにしながら。



「野菜ジュースとベーコンエッグ」

秋子が驚き、そして確かめるように言った。



「今、何て言ったの?」



「野菜ジュースとベーコンエッグが食べたいって言ったわ」



柚子は精一杯優しい笑みを母に見せてあげながら、そう言った。

母は何も言わず、我が子を抱きしめた。力いっぱい抱きしめた。

「お母さん、痛い」

急激に痩せたせいか柚子の体は軋むようだった。

「あ!ごめんなさい!

あんまり嬉しかったものだから、つい力が入っちゃった」

柚子の肩をさすりながら秋子はそう言った。



「けど、そんなものでいいの?」

「今は、それが食べたいんだけど。だめ?」



秋子は激しく首を振った。



「いいえ、そんなこと無いのよ。ただ・・・いやいい。

気が変わらないうちに作っちゃお!」

そう言うと秋子は走るように柚子の部屋を出て行った。



「野菜ジュースあったかな・・・」

小さな声で母がそう言うのが聞こえた。柚子の顔に笑みが浮かんだ。

彼女は再び父の写真に話しかけた。



「お母さんて、可笑しいよね。でもお父さん、そこが好きだったんだよね。

・・・私の事、あんなに愛してくれていたのに。

今まで気付かなかった・・・

もうこれからはお母さんの前では泣かないって約束するから。ね、お父さん」

 

こうして母と娘の切ない思いを乗り越えた、微笑ましい生活が始まったのだった。

しかし、問題はもう一つあった。

 柚子は生来活発で「体育の先生になりたい」のが夢だったのだが。

大好きだった父親の死は柚子から食欲だけでなく、

将来への夢まで色褪せたものにしてしまっていた。

 食欲の方は母、秋子の必死の思いが通じ、解決を見たが、

将来への夢は一向に再生の気配さえ見せなかった。

 その後押しをしてくれたのは、秋子の親友、智子であった。

彼女はファッション業界に強いコネクションを持っていた。

 

「それだけじゃないわ」



彼女は柚子の上背と伸びやかな肢体。それに人を惹きつけずにはおかない笑顔、その目の力。

 

「高1の頃から感じていたのよ」



と言い、モデルのオーディションを受けるように強く薦めた。

そして智子の目に狂いはなかった。柚子は文句なしに合格し、今では断るのに苦労するほど仕事の依頼が後を絶たない。

断っているのは、下着のモデルなど際どいもの。

 

「好きでも無い男性に見られるくらいなら、いっそ辞める」



と、今どき珍しい事を言い、母親を安心させた。

しかし、それでもモデルを続けていられるのは、他でもない、母の親友、智子のおかげなのである。

 

「ごめんね」と謝る秋子に智子は言った。

 

「最初から、そのつもりでいたわよ。あなたの娘に辛い思いをさせるようなら、薦めはしないわ」



と頼もしい。

おかげで柚子は優雅とはいかないまでも、何不自由のない生活を続けてきた。

 彼女は撮影のため海外へ行くと必ず、母の為に選んだものと同等のものを、

智子にお土産として持ち帰ることを忘れたことは無い。

柚子は柚子なりに智子の好意に感謝していたのである。

 

 歯ブラシを持つ手を止め、顔をやや上向きにして柚子は言った。 



「やかいうーふとべーほんへっく」

「野菜ジュースとベーコンエッグね、分かったわ」



親子でなければ成り立たない会話である。

テーブルの上に二人分のランチョンマットを敷いて、

グラスをそれぞれに一個ずつ置く。

同じようにナイフとフォークをセットし終わった時、

秋子は立ち止まった。

腰に手を当てて、柚子の姿を目で追いながら言った。

柚子はようやく歯磨きを終え、口をゆすぐべくパウダールームへ向かっている。



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